About H.Hayakawa
About H.Hayakawa
早川廣行(Hiroyuki Hayakawa)電塾 相談役ご隠居
portrait
デジタルカメラによる 作品制作と普及啓蒙に情熱を傾け続けた写真家 1994年以来の活動
の結果、デジタルフォトの普及度は顕著で1999年秋、ニコンD1の発売によってデジタル
カメラ時代が到来した! 2016年現在、写真業界はほぼ100%デジタル化しているが、黎
明期の状況を知ることも「温故知新!」 何かに役立つことと信じ少々手を入れてサイトを
残しておくこととした。 上の写真はこのサイト立ち上直前1994年48歳頃撮影     
(今もほと んど変わらない筈? カーソルを写真の上に乗せれば事実は明らかに!)    
 
[ 心覚え・1945年〜2022年]
       
※2019年3月で1997年から 22年間務めた電塾塾長卒業 “電塾相談役ご隠居” に棚上げ昇格

※1997年12月で休刊したWEBマガジン「月刊 IP NET」に、あの“懲りない男”柴田忠男が
取材構成した記事「休まない男、早川廣行」が掲載されていましたので転載します。興味が
ある方はご覧ください。★「休まない男」の記事を読む☆ ... お使いの環境によっては
ブラウザで表示されずP D Fファイルが直接ダウンロードされてしまいますので ダウンロー
ドフォルダから選択して、PDFリーダーでご覧ください                

※1976年前後、若かりし頃に関係していた 今は無き同人誌から一部を転載してご紹介
★1976年12月10日発行 同人誌「むすび」第2号から★


※1960年頃 神田繊維業界紙に連載された父、故早川英俊の回想録を再編集してご紹介
明治40年から昭和24年までの、激変する時代と父の生き方が記された貴重な記録です
★1907年〜1949年までを振り返る『早川英俊回想録』★

※1991年3月28日早川智恵子米寿祝いを記念して、次女阿部英子が記録した「母、智恵
子の道程(みちのり)」93歳まで元気に暮らした母の88歳までの生き方を記述している
その後1997年3月7日に93歳で亡くなった「母、智恵子を偲ぶ」篇を追加している  
★1912年〜1991年までを振り返る『母、智恵子の道程』+『母、智恵子を偲ぶ』★

※1927年3月14日〜18日早川英俊が富澤智恵子を妻とするにあたっての覚悟と、親に
勘当されても智恵子への愛を貫き通した、男の意地の生々しい記録
★1927年3月14日〜18日までを記述した『若き早川英俊の手帳から 其の1』★

※1927年11月30日 新婚7ヶ月で徴兵され、15歳の新妻を残し後ろ髪を引かれる思い
で配属先の朝鮮羅南に向かう。その時すでに新妻は子供を宿していたのだった
★1927年11月〜1929年6月までの軍隊生活『若き早川英俊の手帳から 其の2』★


※1971年10月19日から1973年3月5日にかけ一人の青年がヨーロッパからアフリカまで
独り旅した記録が、実家に送り続けた手紙として残されており 50年後の今、 ここに蘇る
★『サバンナに沈む夕陽に涙して』★


※1971年10月19日から1973年3月5日にかけ 一人の青年がヨーロッパからアフリカまで独り
旅した記録の別便。東京在住乙女との文通量は実家への手紙の1.6倍 実ページ数は3倍に及んだ
★『サバンナに沈む夕陽に涙して…節子への別便』★
🌈💌🧒❤️
※独り旅を続ける青年には出発当初から文通を交わしていた、東京在住の乙女がいた。文通が
愛を結び結婚の為に帰国することとなった。『サバンナに沈む夕陽に涙して…節子への別便』
を読んだ乙女から青年への真心を伝える便りがこの「節子の返信」である
★『節子の返信』★



自分では書けない筈の早川 廣行の死亡告知に代えて『危うく死にかけた話』
★『危うく死にかけた話』★


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